介護日記

レビー小体型認知症になった母と2人で暮らす日々

2020年1月5日の日記。老い、認知症と向き合う。

4日、医者に正月の時の話をした。

とりあえず介護認定でも受けますか?

ぐらいの軽い感じで言われた。

私は母の反応を待った。


私はシワが出来た時、白髪を見つけた時、結構ショックだった。

老いは必ず来るものだとわかっていても現実を目の当たりにすると受け入れがたい。

介護認定なんて、それは本人が受け入れる気持ちを持つのを待ってもいいのではないか?

まだこの時は余裕があった。


母が自分自身と向き合う時間を、なんて

今にして思えば無茶なことだ

母にはもうそんな判断力は無かったのだから。

2020年1月1~4日

1月1日

最近の母は買って来たものを全て調理してしまう。

サケ、アジ、ブリ。。。

調理はするが殆ど食べない。

結局、捨ててしまうことになる。

まとめ買いをやめても冷凍庫のものを出す。

気づけば戻せるが棚の隙間やお盆の下などで溶けていると捨てるしかない。

経済的に圧迫されていく不安を感じた。


1月2日

「今日は喪服を着ればいいのかな」と、母に聞かれ言葉に詰まった。

私にとっては親戚の家に新年の挨拶、母にとっては法事らしい。

支離滅裂なことを話し出す母に狂気をかんじた。

しかし私がおかしいのかも?という不安もよぎっていた。

すると今度は病院に行こうとする。

「病院は休みだよ。今日は親戚の家に行くんだよ」

そう言うと癇癪を起こした。


正月休みの間、母とずっと一緒にいてますます不安になった。

4日はかかりつけ医のところに行った。

母は流暢に話すから医者も認知症を疑わない。

でも家に帰ると激変する。

私は耐えきれず自室に籠もった。

最初の違和感

西日本豪雨の時、我が家は床下まで浸水した。

そんなにひどくない、と人は思うかもしれない。

しかし汚泥は気管支や目を汚染する

濡れてしまったものは殆ど捨てるしかない状況だった。

命に関わる暑さとニュースは毎日伝える。

父は寝たきり

母と私は必死になってゴミの山を片付けた。

父は家の中の物が無くなることが辛かったのか、

私たちがクタクタになっているのに手伝えないもどかしさからか、

豪雨から2週間後に亡くなってしまった。


残されたのは私と母、そして可愛がっていた犬。

その犬も父が亡くなって1年で去っていった。

母の悲しみはどれほどだったのだろう。

私が仕事でいない昼間、母は1人で孤独に耐えていた。


最初に異変を感じたのは朝食の時間。

段々と起きる時間が遅くなり、食べる時間も遅くなった。

父も犬もいないから好きな時間に食べてるのだろうと思っていた。

しかし様子を見ると違和感がある。

段取りが出来ず同じ事を行ったり来たり。

パンを焼き、牛乳を温めるだけのことに1時間もかかっていた。


夜中に色々考え、早朝から通帳を見る。

出費を計算した紙があちこちにある。

しかもどれも正確ではない。

最初は「大丈夫だよ。生活できるよ」と言っていたのだが通帳を見てびっくり。

1日で8万、12万と出している。

何で?

母に聞いても「わからない」という。

探しても見つからない。

一生懸命に探している母を見ると可哀想で涙が出そうになる。

「大丈夫だよ」とは言うものの、このペースでお金が消えたら生活出来ない。

それに車を運転するのも不安だ。

1か月前に免許更新したばかり。検査をクリアしていた。

でも今の状態は心配。母のかかりつけ医に相談した。

すると「認知症には見えない。それに車に乗れなかったらお母さんも困るでしょ」と言われた。

私が仕事を辞めたら生活出来ない。でもこのまま母を1人にしていいのか不安だった。